改めて気功を学ぶ
こんにちは(*⁰▿⁰*)
「tree top」のこずえです。
12月に入りましたね〜。
思えばあっという間の一年でした。
年々早くはなっているのですが、今年は特に早かったです。
もう一週間、もう一ヶ月、もう一年経ったって感じです。
それだけ毎日が楽しかったんですね(*⁰▿⁰*)
来年はもっと早くなりそうです。
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さて、
先日気功を学びたいという方がいらっしゃいまして、久しぶりの気功講習を開催しました。
気功に触れて、知ることで自分を整えるということが主体ですが、いつものことながら脱線脱線です(笑)
脱線させてしまうのは私なのですが(笑)
旦那さんの言葉を聞いていると、ハッとすることが多く、話したいことが多いです。
少し我慢するのですが、我慢が出来なくて困りものです。
脱線のひとつの話で日本についてお話したことがあるのでちょっとだけご紹介します。
日本を選んで生まれてきたことはすごいことなのです。
日本人は生まれながらに「気」というものを当たり前のように感じているんです。
気が合う、気が進まない、気が落ちるなど沢山「気」という言葉を使いますよね。
それは当たり前のように気の存在をわかっているからなんですよね。
ただ意識をしていないだけなんです。
当たり前のようにそこにあるものだから、意識をしないと気づかないんですよね。
息子が、以前に友達と「自分は一体何者なのか。自分とはなんであるのか」ということを議論したそうです。
すごく哲学的ですよね。
でも、私はそれを聞いた時に、なんでそんなことを考えるんだろう、考える必要があるのかな?と思ったんです。
その時は漠然とそんなことを思っていて、どうしてそう思うのかもわからなかったのですが、今回講習を終えて感じたことがありました。
世界では色々な哲学者がこのことについて説いています。
アリストテレスの「全ての人間は生まれながらにして知らんことを欲する」や、パスカルの「人間は考える葦である」など、有名な言葉がたくさん残っています。
わからないから問うんだと思うのですが、「私」と「神」を切り離して考えるから自分の外側に答えを求めてしまうのかもしれません。
キリスト教やイスラム教のように神はひとつであるとする一神教では、神と人間は違うものとされています。
人間と神様は絶対的に違うもの、相容れないもの、切り離されているもの。
だから私はすごくちっぽけで、ちっぽけな私はどうすればいいのかと疑問が浮かんで来てしまう。
それは、言葉にもよくあらわれています。
英語は常に「I」私という単語から始まる。私から始まるということは全て私次第ということ。
対して、日本語は明確に主語をあらわさない。
それは常に「私たち」を意識しているからですね。
「私たち」の中には目に見えるもの、目に見えないもの全て入っているので、あえて「私たち」とは言わないですよね。
このスタンスの違いというのはとても大きいものだと思います。
私と神が違うということを前提にするという考え方と、私と神は同じものであるという考え方があらゆる面で大きな違いを生んでいるのかもしれません。
私と神がイコールであるならば、疑問に思うことは何も無いですからね。
私は生まれながらに全てを知っているわけですから。
「私は一体何者であるのか」と問いかけるのは、わからないから問いかける。
わかっているから問いかけない。問いかける必要がないということです。
改めて「気功」についてしっかりと学び直して、「気」を意識して触れてみる。
私にとっても素晴らしく有意義な時間となりました。
当たり前だと思うことが日々たくさんありますが、それは当たり前ではないということ、
ありがとうの反対語は当たり前です。
「ありがとうございます」は
「在り得ないような、有り難い奇蹟が今、ここに起きています」という意味です。
この時代に、この場所に、今ここにいること、全て何事も当たり前ではないのだということ。
小さなことでも意識をすることがとても大事なことです。
正解は一つではないと思うんです。
気功が全てだとか、この流派が一番とか、他は間違っているだとかそんな考え方になってしまうと対立してしまいますよね。
この考え方いいなとか、これは私はこう思うとか感じながら色々なものを受け入れて自分のものに出来ると面白いです。
毎回思いますが、気功講習を開催するとたくさんのことを私自身も気付かされることが多いです。
もっとたくさんの方々とこのような話が出来たら楽しいなぁと思います(*´꒳`*)
庭の木々がとても綺麗に色付きました。
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